多摩信用金庫本店2階ギャラリー(地域貢献スペース)では、吉山明恵(よしやまあきえ、1992- )の個展「うつろいの星」を、2022年12月9日(金)まで開催中です。
出品作家の吉山さんに、作品に対する考えや、制作プロセスについてお話を伺いました。
(聞き手・文:たましん美術館学芸員 佐藤)
吉山です。去年、多摩美術大学の油絵の大学院を修了しました。今はデザインの仕事をしながら会社から離れたところに一軒家を借りて、そこの一階をアトリエにしていて。今回は、休みの日とか仕事に行く前にそのアトリエで制作した作品を展示しています。仕事は午後からなので午前中は制作にあてています。
――日々お仕事をされながら、制作のための時間はしっかりと確保されているんですね。
そうですね、なるべく、やりたい時にやれるように心がけています。
――今回の展示企画をお考えになった経緯をお話いただけますか。
在学中に、大学の研究室に地域貢献スペースの募集要項が置いてあるのを見つけて、応募しようと思ったのですが、ちょうどその時は修了制作を終えた段階くらいだったんですね。それで、「修了制作で私は何をしたかったんだろうな」ということを振り返りながら、やっぱり「修了して大学を出て終わり」じゃなくて、その先も制作を続いていける一貫したテーマというか、その先に一歩踏み出すためのコンセプトがほしいなと思って。そこから手探りで考えていって、「変化」とか「記憶」とか…自分が以前から自然とか周囲の環境に対して感じてきたことを、企画らしい言葉にまとめるとこうなるのかな、というのをテキストにしました。
――在学中から温め続けていた考えを今回の展示を機にあらためてテーマとして文章にしてみたというような。壮大でもあり身近なテーマという印象を受けました。
この企画を考えてから、具体的に展示の準備をしなくてはならない段階に入るまで、期間が結構長くありまして。でも、今年に入ってから、展示準備始めなきゃと思ってもう一度自分の書いた企画書の文章を読み返してみたら、そんなに的外れなことを書いたわけじゃなかったなというか、この関心事が今までちゃんと続いているなと感じてほっとしたところがありました。ある企画を出してから時間が経ってもずっと一貫してそのテーマで制作して発表まで持っていけるかどうかって、コンセプトを考えている段階ではわからなくて…。
――企画書を提出された当時はまだ在学中でいらっしゃったけれど、今回の展示では、大学院を修了されてから制作した作品を発表しているんですよね。
そうですね。一年くらいかけてちょこちょこ変更していったような作品もありますね。制作は、タイトルを全く決めない状態から作っていって、完成だなと思った時に決めるという感じですね。あらかじめこの作品はこう、と考えて制作するんじゃなく、描いているうちに見つかるというか。
――展示作業終了時にお話した際、「言葉やテキストが制作に先立つわけではない」という内容のことをおっしゃっていたと思うのですが、制作の中から見いだされるものとしてあるのですね。
在学中と大学院修了以降、制作の上で、自分の中で変化したことなどはありますか。
モチベーションはどんどん上がってきている感じですね。大学院を修了する間際まではずっと何をすればいいかわからなくて、インスタレーションやったり映像やったりと転々として、それから絵に落ち着いたというか、落ち着いたと言っても絵だけをやっていくというわけではないんですけど。自分が心地いいというか、自分の趣味を出してもいいのかなと肩の力を抜くことできたのは、修了制作が初めてだったので。それまでは、「インテリアになってはいけない」とか「もっと同時代性を意識しなくちゃ」とか「もっと勉強しなきゃ」みたいな、自分の心地よさを単に求めたり、コンセプトとして甘いのはどうなのかとか考えて頭でっかちになってしまっていて、どこかかみ合っていない感覚があって。そういう意味では、モチベーションはあっても勢いがつけられない、という長い時期がありまして。でも修了制作から今現在までは、するっと突破できるみたいな手ごたえがあって、モチベーションとしては高く保てているというか。もっと色々と自由にできるという感覚がずっと続いています。あとは、完成度に対する考え方とかも、どんどん自由になってきているというか。自分がやりたいことに対してコントロールができるようになってきたという感覚があって、それがほっとしたというか。
――吉山さんが企画を応募された際に参考資料として送ってくださった作品の画像を見ると、今回の展示作品に通ずる様相の絵画作品やドローイングは、その様相だけでも、ある意味、一貫性があると言い切れないというか、絵画のための様々な方法を試している過程にあるように感じられました。
どのメディア、どの画材を選んだとしても、めちゃくちゃ研究のしがいがあるので、ある意味、結構それは困るというか。楽しいんですけどね。昔の人が書いたテンペラの技法書などを読んだり、美術館で絵を見て、絵具の重なり方を見たりとかして…。毎回やはり、試しているという感じはありますね。
――なるほど。制作のテーマに通じる吉山さんの関心は、そういった画材の選択など制作の実際的な部分にも影響を与えているのかなと感じますが、こだわりはありますか。
画材で言うと、粉っぽいものとか、用いるのになるべく手間がかかるものが好きです。ドローイングだと、すっと色が入る色鉛筆とか水彩とかを使うことが多いですけど、比較的大きな絵画は、描き始めるまでにワンクッションあった方が気持ちがのるというか、そう感じます。色がきれいに発色するというのが大事なので、あまり混色することはないですね。出したい色があるときはしますけど、配合とか比率とか、なかなか上手くいかないことが多くて。
――全体的に発色がきれいですよね。複雑な重なり方をしていても透明感が残っていて。
色については褒めていただくことが多いんですけど、特に努力して手に入れたものというわけではないのであまり思い入れはないというか(笑)。自分には、色で描いちゃうとか、色でアピールしすぎるところがあるのかなと思って、最近は例えば水彩のドローイングにしても、黒だけ使うとか、モノクロ縛りで最近やってみたりしています。
――吉山さんにとって、一番ご自身に親和性があると感じる画材は何ですか。
筆だったら、日本画用の筆がとても使いやすいと思っていますね。傷みやすい使い方をしてしまっているかもしれないですが、隈取筆とか彩色筆とか、日本画用の筆はいくつか持っています。どれも、本来の用途とは異なるけれど、思い通りに使える、と感じます。先がとてもとがっているので細い線が引きやすいし、水を含ませた時の筆触とかも好みで。もしかすると、脳みそが油絵じゃないのかもしれない、油絵専攻出身ではあるけれど…。ただ、日本画は画材としては好きですが、日本画の思考や表現のあり方は全く自分とは相容れないですね。使った時の感じ方の相性としては、日本画の画材と合っているんだろうなと思います。
――吉山さんの作品ではテンペラが使われているのも特徴の一つかと思われますが、テンペラについてはいかがでしょうか。
テンペラを使うということについては、単に好奇心からで、テンペラで制作されている現代の画家さんを見ながら、絵柄などは全く違うけれど、惹かれるものがあって、いざ使ってみるとしっくりきたというか。画材が背負っている歴史が長くて重すぎるので、それが心配ではありますけど、使い方とかを調べながらやっているので、結局は自己流になってしまっているんだろうとは思いますね。テンペラ画を、描き方、モチーフの選び方からテンペラ画の枠組みの中で制作している人から見たら、全く違うものになっている気もします。何でも試してみて、自分に合っていそうだったら使うというちょっとわがままなやり方をしていますね(笑)。
毎回卵から絵具を作るという、その手間がいいなと思っていて。準備をしただけでも、やり遂げたような感覚があるというか、そういう充実感が大事で。画材というか顔料が並んでいるのも居心地がよく感じますし、何よりテンペラが自分にとって新鮮で。新鮮さも重要だし、あとは、厚塗りができないことが性に合っているなと思います。厚塗りすると、そこから完成に持っていけなくて。透明感のある色の層を重ねていくというやり方でないと、描き進めることができなくなってしまう。
――今回の展示でははがきのサイズなど小さめのドローイングと、大きめの絵画作品が出品されています。吉山さんの中ではどういった位置づけとしてあるのでしょうか。また、作品としての影響関係はどのようなものがあるのでしょう。
やはりドローイングと大きい絵画は、「ノリが違う」かなと。ドローイングは、毎日やる練習というか、勘とかを保つための練習みたいなことで、かける時間も短いです。(展示する際などは)大量に描いた中から選抜する感じですね。大きな絵画に関しては、大量に描くということは物理的にも困難なので、一枚に時間をかけて、修正していくような感覚で描いていますね。かと言って、時間をかけたからといって完成の時点で思い入れがそこまであるかというとそうでもないというか。ドローイングは「瞬発力」で、大きな絵の方は「理性的に操作しようとしている」というか。タイトルを決めた時点で、そのタイトルに寄せようとするとか、画面のバランス保つために上から白をのせて消すとかもしていますし。
影響は与え合っていると思いますね。こっち(ドローイング)やって、こっち(大きめの絵画)やって、また最初に描いていたドローイングに戻ってきて加筆して、また新しいものを作ったり…みたいなこともします。
――ドローイングが必ずしもある絵画の準備段階として描かれるわけではないと。一方向的ではない関係性があるのですね。
そうですね。あと、構図とか、構図に対する自分の頭の固さはどちらともに共通していると思うんですよね。例えばドローイングの途中に、画面のここの縁空いてるじゃんと思って変えたりするんですけど、それからまた制作途中の大きい絵を見てドローイングと同じような箇所が空いてるのを見つけると、「やっぱり」と。自分の癖を確かめやすいですね、ドローイングの方が。短時間でどんどんできるので、比較して自分の頭の固さを自覚したりします…。ドローイングして(大きな絵に)戻ってきて、大きな絵なら修正ができるので、「ここはこうすればよかったのか」と、ドローイングからヒントを得ている気がします。逆に大きな絵からドローイングに戻ってくる時も、大きな絵で見つけたヒントを元に加筆したり新しい小さいドローイングを作ったりします。二つのバランスというか、そういうものはあると思います。
――なるほど。支持体のサイズ感も、かなり重要な要素のうちの一つなのでしょうか。やりやすい広さ、やりにくい広さとかはありますか。
そうですね、それはやっぱりありますね。今展示されているものなら30号くらいですけど、一番大きい絵がありますよね、それとこの小さいドローイングがあって、その中間のサイズが一番苦手で。大きい絵の力のかけ方と、小さい絵の力の抜き方はわかっているんですけど、力を抜くのでもなく力を入れるのでもない、それでもいい作品というのが…、具体的に言うと10号とか20号でいい作品を作るというのが、自分は苦手だなと。次はその辺りのサイズで自分なりのやり方を模索していこうと思っています。
大学にいた頃、文化人類学や言語学など、絵を描くことが専門でない教授から、「“大きいからいい作品”ということはない」というか、作品の大きさに対してあまり意識したことはないというようなお話を伺ったことがあったんです。…でも、やっぱり大きさは重要というか、作品の大きさの影響力ってかなりあると思います。小さい作品って、どこか「インテリア的」になってしまうのではないかと…。インテリア的なものを低く言うつもりは全然ないのですけど、大きい絵が持つ迫力とか破壊的な力とかは、小さい作品だとやっぱり別の位置づけになってしまう気がしていて。今私は“中くらい”のサイズが課題で、向き合うべき要素の一つだと考えています。
――絵の中に実際に描かれているものについてもお聞きしたいのですが、まず、吉山さんはご自身が描きたいものを絵のかたちするまでにどのような過程を経るのでしょうか。
そもそも自分が絵を描くときは、自分の脳内にある「こうしよう」というものを再現するのではなくて。あと、全くの白い紙から始めるわけでもなくて。まず、とにかく手を動かしてみて、その動かしたものを「こうしたい」という欲望の中に、すでにモチーフに対する自分の欲望があるので、それを修正していくというか。修正の積み重ねのようなものによってできていくんですね。描いていくことで、自分が描きたかったものを理解するみたいなプロセスがあると思いますね。
画面の中の構成については、面白いな、こうすると面白い、というのが出てきた時点で、画面の上下を決めます。そこからは、そこにすでにあるものをより良くしていく、という感覚で進めていきます。下絵は、描くことはありますが、絵の見せ方が決まって、制作の中間地点に来たら描き始めます。常に修正していくというか、まっさらな状態で何かを決めるということはしないですね。何も考えないで動いて、途中で下絵を描き始める。常に、「何かがある状態から修正していく」という感覚です。
――吉山さんの絵を見ていると、絵の中を探る感覚が自然と呼び起こされるようです。その探るというのは、理解するのとも違うというか、ある程度の時間を要することで。そういう点で、そしてポジティブな意味で時間がかかる絵のように感じます。
ああ、自分で見ていても、自分の絵に対しては理解した気持ちになりづらいですね。例えば余白とか質感とか、考えていることはたくさんあるんですけど…。画面の白さは損なわないようにというのは心がけていますね。描いていて、足りないと思えば上から白をのせてしまうこともありますし。李禹煥とかの作品にある余白のように、あそこまで思い切って余白を作るのは、自分なら途中でつまらなくなってやめてしまいそうだなとも思いますが、余白に対する欲望は持ち続けてやっています。
あとは絵の密度とかも気を付けていますね。あまり主張しすぎないようにしたいというか…。それと、よく、インスピレーションをどこから得ているのかという質問ってあると思うのですが、インスピレーションがあって、それを目がけて絵を描くということはほとんどなくて。
――あくまで、画面の上で何か線を引いたり、色を置いたりしたところから始まっていくと。
はい。でも、そういえば、この作品(《東の庭(四方四季)》)の地の色は、始めは白ではなかったんですね、白じゃないところから始めてみようと思って。でも、やっぱり白の方がいいなと思い直して、上から白を塗って地を作りました。でも、やっぱりそれもどうだろうかということで、やすりがけして、始めに塗った地の色をところどころ覗かせているのですが…。これは、自分の思考回路のうねうねした感じが出ているなと思いますね(笑)。
――ああ、この紫や緑のような部分ですね。
かろうじて画面の汚れにも見えるのですが、汚れも自分の味方にできると思ったので。弱い絵を弱いまま成立させるというのは難しいですね。強い絵じゃないと、完成度とかクオリティとかそういう方向に結びついていかないのですが、私は弱い絵が描きたいなと。特にこれ(《東の庭(四方四季)》)は汚れっぽさとか、余白とか、わかりにくさとかをそのまま出している絵だと思います。この赤い絵(《熱(FormenⅡ)》)なんかはまさに主張しているし、作品を見た人に感想を聞くと、「やっぱりあの赤いのが良かった」など、よく言ってもらうんですね。それはそれで、絵として主張が強くなるようにしたわけだから、そうなるよなと思うのですが。
――なるほど、“弱い絵”を描くというのは面白いと思います。吉山さんの作品のイメージが持つ魅力につながっていきそうな…。制作における課題のひとつとして、重要な位置を占めているように感じられます。
そうですね、絵を見る時って、描き手のエゴとかも伝わってくると思うのですけど、それをなるべく脱色していきたいというか。別に、少ない手数でやりたいとか、作る喜びから離れたいとか、そういうわけではないんです。まだそんなに考えはまとまっていないのですが、「余白」に対する執着心とつながっているような気がします。…うん、やっぱりまだ自分の中では、理解しきれてはいないですね。
私の絵は描き込みの多さとか明らかな密度の高さがあるわけではないのですが、余白も含めて緊張感があることを目指しています。何だか矛盾しているような気もしますけど、緊張感はほしいですね、自分の中の美意識として持っていなくてはならないな、と思います。
今回のインタビューを通して、自身の制作への態度を客観的に見つめつつ、自分が絵画でできることは何なのかを貪欲に追求しようとする意志を感じられました。そして、支持体の方向を前もって決めず、手を動かしながらその変化の中に面白さを見つけて絵にしていくという手法について、「すでにあるものを“修正していく”意識がある」というお話が印象的でした。作品をゆっくりと見てみると、まさにその制作の中で、「何かが絵になり、画面を作り出していく」過程を、緊張感を持って見つめる作家の視線が思われます。ぜひ会場に足をお運びください。
会期|2022年10月31日(月)〜12月9日(金)
利用可能時間|午前7時〜午後10時
入場料|無料
会場|地域貢献スペース(多摩信用金庫本店本部棟2階北側通路のギャラリースペースです)
〒190-8681 東京都立川市緑町3-4 多摩信用金庫本店2階
お問い合わせ|042-526-7788(たましん美術館)
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