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「風配図Ⅱ」手嶋遥インタビュー(地域貢献スペース/立川)


多摩信用金庫本店2階ギャラリー(地域貢献スペース)では、手嶋遥(てしまはるか、1992-)による個展「風配図 Ⅱ」を2023年3月31日(金)まで開催しています。

出品作家の手嶋さんから、本展覧会の構想や制作プロセス、日本画制作における特異性と表現との関係などを伺いました。


(聞き手・文:たましん美術館学芸員 佐藤)


――今回の展覧会を企画した経緯を教えてください。早い段階から、地域貢献スペースの少し特殊な空間を生かした展示をお考えだったとのことですが。


最初、2020年に越智さんの展示(越智也実「Dialogue/Monologue」)をこちらの会場で見た時、綺麗な会場だなと思いました。私の作品はサイズが大きめであるということもあり、しっかりと天井高がある会場で展示をやってみたいなと思っていたんです。また、この会場は、天井は高いんだけれど通路幅が狭いので、作品を見る時に壁面に対して引きが取りにくい。その条件を使って何か面白いことができたらなと。


――会場の特徴として、「引きが取れない」ことは良い条件と言いにくいポイントではありますけれど…。


自分の絵の描き方としては、ものを部分的に時間をかけてじっくりと見る、それが蓄積されて一つの風景になる、という考え方が最初にあって。作品を見るのに引きが取れないということによって、(鑑賞者の方も)そういった見方に自動的になるのではないかと思いました。パッと全体を見るのではなくて、まず絵に近寄って、そこから部分的に見たり、見上げるようにして見たりというような。作品の見方が制約される会場で展示してみるのも面白いなと。自分が絵を描いている時の距離と、絵を見ている時の距離との差ができるだけ小さい方がいいかなと思っています。

今回の展示の構成としては、会場に入ったところから、春、夏、秋、冬とそれぞれの季節をテーマにした作品が1点ずつ並んでいて、通路を歩いていくと季節が移り変わっていく、ということをあまり捻らずにやっています。


――展覧会タイトルにある「風配図」というのは、あまり聞き慣れない言葉ですが、これは気象に関わる単語ですね。


そうですね、ヨーロッパの教会などに行くと、足元に羅針盤のようなものが描かれているのを見かけるのですが、これが風配図です。バラの花のような形なので、「wind rose」と呼ばれます。ある地点においてこの季節にはこの向きで吹くことが多い、「卓越風」と呼ばれる風がありますが、そうした一定期間の風の特徴を記録するためのものです。教会の床にあるものは意匠的なものですが、建物の強度や土地利用の観点から実際の土木業の現場でも、この風配図は使われます。「風を記録する」ということや「風配図」という言葉自体が自分の中に強く残って、何かに使えないかな…と思っていました。今回展示のタイトルを考えるに当たって、見る行為に対してどのように言えるか、自分がどう対象を見ているかということを考えたときに、風のように捉え難いものも、時間をかけて観測したものが蓄積することで形になる、ということが自身の制作と似ているなと思いました。


――手嶋さんの絵画作品では風景が描かれているのですが、その風景を構成するものの形の取り方が印象的です。植物など具体的なものに見える要素は、ところどころ描線が部分的に連結したり色が溶け合ったりしており、絵の空間のどこに何が属しているかが明確でなく、画面の階層が複雑になっています。


以前は制作の中で、画面に和紙を部分的に貼り重ねるということも行ってきましたが、最近はあまりやらなくなりました。物理的なレイヤーを作り、空間に複雑な奥行きを持たせるという目的があったけれど、だんだんと単なる作業のようになってしまうことが増えてきたんですね。画面的に少しうるさくなるのもあって、すっきりとした画面を作ってみたいなと思い、去年の前半は、絵の、ある部分とある部分をパズルのように、しかし継ぎ目がずれるように不正確に組み合わせた絵を制作していました。というのも、私は絵の下図を作るために、風景をスケッチしてきたものをばらばらと並べるということを行うのですが、その状況をそのまま絵にしたいと思ったんですね。スケッチを元に一枚の絵を作ろうとするのではなくて。スケッチしている時は、ある部分を一生懸命見て描くという行為を繰り返していくわけなのですが、それをそのままつなぎ合わせた絵を作りたいと考えたんです。でも、この制作も継続してやっていくうちに、やはりまた画面が情報過多に思えてきて、一旦お休みすることにしました。今回の展示に出品した作品では、様々な視点から見た要素がばらばらに継ぎ合わされていることをあからさまに強調するのではなく、自然なかたちで表したいと考えました。例えば《夏 ー川のほとりー 》は、右奥に向かって抜けていく視点があり、一方で画面上部には対象を見上げる視点が入っていたりします。そういった視線の差を、物理的に分割した画面でことさらに見せるのではなくて、描線を自然につなげることで気持ちよく見えるようにした方が面白くもあるかなと。見る人が視線を動かすうちに自然と様々な視点から見られるようにしたいと思いました。


――手嶋さんが風景を見た時の経験をそのまま絵にするというか、風景を見る方法が絵になっているような。


そうですね。「見ること」と「描くこと」の間があると思っていて。特に、日本画の本来のプロセスでは、たくさん引いた描線を精査して一本にするまでに、長い工程を踏みます。でも、本画ではその試行錯誤は一切見せずに、一本の線だけ残して涼しい顔をしているというのが、日本画の特徴としてあると思います。私にとってはその、本画では見せることがない部分が不思議で、一番興味があるところなんです。画材の特徴ゆえにそうせざるを得ないことでもありますが、見たものを最終的に一本の線としてまとめていく。だけれど、その「まとめていく」までの間に作家の個性が出てくると思う。それを自分なりに考えていこうとしています。「日本画の画材を使っているから日本画だ」ということではないと思うんです。もっと、絵作りのところで何か独特なものの捉え方があるはずで。それは画材に影響を受けているわけですが、私の場合は、「本画の線を作る前段階の時間」に意味があるような気がしています。

写真に撮られたものを見ることと実際に直接見ることって全然違う経験じゃないですか。でもその違いを言葉とか、形にして表現するのは難しい。それを考える手段として、日本画における本画に至るまでのプロセスを見直すことは意味があるんじゃないかな?と思っています。


――日本画特有の制作過程や制作の手法が、手嶋さんの表現の独自性に確実につながっていると感じます。手嶋さんはそもそもどういった思いがあって大学で日本画を専攻なさったのでしょうか。また、ご自身なりの表現の方向性などについてもお聞きしたいです。


幼い頃は油絵をずっと習っていて、その頃から「美大に行って油絵か日本画をやりたい」と思っていました。地元には予備校なんてなかったので、同じ絵画教室に受験までずっと通い続けました。そこの先生のすすめで都内の美大の卒業制作展を回ってみたら日本画の方が好きだなと感じたので選びました。同じ頃、美術館で速水御舟の《洛北修学院村》を見て、とてもいいなと思ったこともあると思います。今でも一番好きな絵です。他には前田青邨や福田平八郎の絵を見て、明るい印象で、線がスパッと引いてあって、自信がある感じがすごくかっこよく思えました。“外国人から見た「和」”っぽい絵ではなくて、描線や景色の切り取り方が本当に個性的で面白いんです。それは、線を精査するというプロセスの中で、自分にとって必要なものを見極める作業にそれぞれきちんと時間をかけていたからだと思うんです。今はそういった、結果的に見えなくなってしまうことに時間をかけるよりも、目に見える部分の技巧を凝らすことに重きが置かれているように思います。その前の、見たものを線や形に置き換える段階に日本画の面白さがあると私は感じているので、そこを自分なりにやっていきたいなと思っています。


――「何がどのように描かれているか」より、作家が絵の中に何を残したのか、何を消した・消そうとしたのか、ということに重要性を感じているんですね。


そうですね。(ポール・)セザンヌの、風景の水彩ドローイングがありますよね。あれは、セザンヌが強く見たところにだけ色彩がのっているんですよね。そのことは、日本画を描く人たちがやっていることと親和性があるんじゃないかと思っていて。どうやってセザンヌが対象を見ていたのかがわかる。ちょんちょんちょん、と色が置いてあるだけなのに、ちゃんと奥行きもあって、一番印象に強く残った部分がどこかがすぐにわかる。こういうことができたら本当にいいなと思います。セザンヌはドローイングの段階で既にやりたいことが達成できている感じがします。自分も、少ない手数で、本当にいるものだけ残して、というやり方をしてみたいのですが、どうしてもドタバタしてしまいますね。

学生時代は、ずっと手を動かしてひたすら描いているタイプで、描く前に考えたり、引いて絵を見て考えたり、ということはあまりしていなくて。結果、卒業制作の時に行き詰りました。教授に「ドローイングの方が面白いのに、どうして(本画は)こうなっちゃうんだろうね」と言われたりもして。それが、大下図から本画に転写する作業で線の勢いを殺しているからだと思ったんです。ただ下図の線を同じような太さの線にすることだと思っていました。ということで、大下図を作るのをやめて、直接本画を描くことを始めたんですね。すると逆に、大下図の制作でどういうことを行っているのかが自分の中で明確になっていった。今ではとても意味のあるものだと捉えています。当時は、大下図を作ることを単なる作業としか認識していなかったから線が死んでいっていたのだと思います。でも大下図の意味に目を向けられたことによって、日本画の特異性がよく分かったというか。


――なるほど、最初に引いた線の調子を失わせたくないという意識が、大下図に着目することへとつながっていったんですね。描線についてお話いただきましたが、色彩についてはいかがですか。


そうですね、私は、紙ににじみ止めとして引く礬砂(どうさ)を使っていないんです。むしろ色を画面に広くにじませたい。自分の場合は、日本画の絵の具を上に重ねていくと濁るんですね。汚くなっていく一方で、一度濁るともう二度とさっぱりとした色にはならない。だから、スカッときれいに見せたい時には一発で塗って完了させるくらいでなければいけないんです。かつ、膠が多いとそれもまた濁るし、厚塗りもできればしたくない。また、裏彩色をするというのもあって紙を薄くしているのですが、薄い方が発色は絶対にいいと思いました。例えば、よく使われる厚めの雲肌麻紙に水気の多い筆で薄塗りをすると、そこに現れる色はただ軽いだけで物足りないので、何回か重ねていく必要がありますが、紙が薄いと、一度塗っただけで広く広がって深くにじむんです。一発塗っただけで色に深みが出るし、きれいなままキープできます。そもそもは最初の描線をしっかり残すために裏彩色をしたくて薄い紙を選んでいたのですが、結果的には、発色のためにも紙が薄い方が圧倒的にいいなと。


――初めて私が手嶋さんの作品を見たのは2017年か2018年に武蔵野美術大学美術館で開催された助手展の会場でしたが、その時も、色彩の透明感と鮮やかさが強く記憶に残りました。発色のよさをもたらす要因の一つとして紙の薄さがあるとのことですが、薄い紙の方が色の深みが出るというのも興味深いです。


上に絵具が重なることでできる階層ではなく、色がしみこむことで内側にできていく階層の方が深いと思います。これは絶対に油絵のキャンバスでできることではなく、日本画だからこそ可能な表現だと思っています。にじみ止めをしていない和紙にどんどん色がしみこんでいって、下へ下へと絵具が入っていく感じが、絵肌としても特異なものを作り出していると思います。

日本画をあえてやるからには、その画材の特性を使って、他の絵画とは絵肌が異なるものを作らなきゃと思っていて。紙が薄い方が、私としては、やれることの幅が広がりました。そもそも今多くの人が使っている雲肌麻紙は以前はなかったので、みんな色々な紙を使っていたんです。例えば、竹内栖鳳は「栖鳳紙」を、小杉放菴も「放菴紙」という紙を作らせていた。多くの作家が、自分が求めている絵肌を出せるような紙を特注していたと知りました。今の日本画の制作者は、雲肌麻紙を使うという人がほとんどだと思います。油絵と同等のことをするための強い紙というか、厚塗りするための紙です。また、絵具を盛り上げて削るだとか。私としては、にじませるなどの仕事には向いていない紙なのでやれることがすごく狭まってしまうと思います。


――色の重なりが、濁ることなく明るさを保ったままで画面にある状態というのは大変難しいことだということがわかりましたが、本当にシビアに順序だてて制作されていると想像できます。絵を作る過程についてもお聞きしたいです。


最初に墨一色でドローイングして、出来上がったら表裏をひっくり返して裏から彩色します。最初に塗るのはたいてい白など明るい色が多いです。画面の中で同じ色にしたいところは一度に塗ってしまうんです。作業っぽくもありますが、順序を間違えると絶対に結果は大きく異なってしまいます。一番表面に残ってきてほしい強いところを一番最初に塗るので、どこにどの色をのせるかということと色をのせる順序は最初からある程度決めてあります。設計図的なものを作ってから描き始めますが、これを作るのに一番時間がかかりますね。

最終的な設計図はハガキほどの大きさで作りますが、これを作る前に形の設計図を作ります。色々なスケッチをたくさん集めてきて組み合わせて作るので、それ自体はかなりの大きさになることもありますが、それをまた小さいサイズに集約していくんですね。そこにまた色を付けて吟味します。


――絵が大きくなったり、小さくなったりしながら本画となる段階まで進んでいくんですね。


そうですね。そういう段階を踏んでいく中で色々なことを考えています。


――手嶋さんは、自転車で東京の郊外を散策したり山登りをしたりする中で絵を描く意欲が湧いてくると展示のステートメントに書かれています。それは、「絵にしたい風景が見つかる」というよりはまた別のきっかけのようなものによってもたらされるのでしょうか。


「絵の中によく木が出てくるのはなぜですか」と聞かれることがありますが、枝の形を利用して空間を複雑にしているというのはあります。山に登って周辺の風景をぼーっと見ていると、生えている木々の前後感がわからなくなりませんか?整理して見ようとすればわかるかもしれませんが、「どの木が手前にあるのか」とか、「この木とつながっているのはどの木か」とか追っていけなくなるじゃないですか。その感覚を残したいです。木を描いているというのもあるけれど、むしろ木の間、枝の間を描くというか…。絵画における図と地の意識みたいなものはあまりなくて、木や枝の間というのは絵の背景として考えていないです。スケッチを元にしたドローイングを見ると、ところどころ断片的で、空間としてつじつまは合っていないけど、それが自分が風景を見ている時の感覚に近く感じられます。実は人って、自分が凝視しているところしか覚えていなくて、意外と空間全体の認識は曖昧なんだろうなと。本来、風景を見る時は誰でもたいていは見たいところにだけ焦点が合っていて、しかもあちこち見渡したりもしますよね。視点は決して一つに定まっていないはずです。

私が現地でしてくるスケッチはあくまで部分です。木の根元やその周辺をちょっと描いて、次はあの山の中腹のあそこ…というような。そういう、目にした景色の、不思議に見えるところを描いて、断片を後から再構成していきます。


――見た景色がそのまま風景画になるのではなく、スケッチによって手嶋さんの視点を通した断片となり、再構成されるという段階が挟まれるんですね。人工物に対しては、山や郊外の風景について仰ったような不思議さなどを感じることはあるのでしょうか。


例えばビル街とかに見える形って、直線でできていてしっかりとパースがありますよね。美大受験の時に空間認識の力が鍛えられてしまっているからか、ある程度整理して見ることができてしまって、不思議さを感じないんです。

普段平地にいて、その辺に生えている木を見るとしたら、ある程度背の高い木であれば、たいていは「見上げる」ことになりますよね。生えている地面が自分の立っている地面と同じだから。でも山に登ると、自分と地続きだとしても自分のいる場所より下に木が生えているという場面に出くわすわけですよね。周りの地面の高さが入り組んでいるというか、そういった、よく見ても理解しきれない風景の方がやはり惹かれます。理解をしようとすることに時間がかかる景色の方が絵を描くにしても面白いというか。


――今回は150号の作品を出品されていますが、最初にご自身も仰っていたように、手嶋さんの作品はサイズが大きいということも特徴的ですよね。手嶋さんの絵作りとの関わりについて教えてください。


サイズもかなり大事ですね。私は小さい絵を描くことが苦手で。というのも、画面が小さいと、描いているそばから画面全体を見渡すことができてしまうからですね。そうするとやはり矩形を前提とした絵作りをしてしまって、画面が不思議にならない。自分の体のスケールより大きい画面だと、一気に全体を見ることができないからこそ自分のやりたいことができるように思います。

また、縦長の方がより視線の動きが面白く感じます。例えば、日本だと雪舟の作品が有名ですが、「点景山水」という山道を歩く人物が込みで描かれている山水画があります。これはまさに「山に登っている」感じを描き出そうとしているものですけれど、山とその山を人が登っていく様子を、絵を見る側が自然と「見上げる」ことになる形をしているんですね。床の間などに飾られて、座っている状態から見られることを前提としていたりして、本当に目前にした山をしばらく座って眺めているような感覚がしてくる。鑑賞する人を没入させる工夫があります。絵の形と、それを見る空間の条件がよく計算されていることを考えれば、山水画も一見普通の風景画のようだけれど、インスタレーション的な方向性もありますよね。見方に対してもアプローチできる仕掛けがあるというのは作品として面白いなと思います。

作品に包み込まれるような感覚を作れたらいいのですが、そのために単に画面を大きくすればいいというわけではなくて。山水画も決して大きいサイズではないのに、その風景のスケールを感じられて、複雑な空間を作ることができている。それができたらいいのですが、今のところ150号は自分にとって一番丁度いいサイズですね。無意味に画面が大きいという感じもないし、丁度よく絵を複雑にできるので。縦3mの絵を描いたことがありますが、これは結構手応えがありましたね。画面の縦の長さを工夫するというのは取り組んでいきたいです。


――作品の縦の長さというポイントをお聞きできましたが、今後の作品制作のために考えていらっしゃることを教えていただけますか。


あるお寺で、「絵解き」を見たことがあります。仏教の教えを絵で説明してくれるものですが、ストーリーに沿って、一つの風景の中で登場人物の動きが順番に描かれていきます。同じ登場人物が風景の中を移動していくんですが、絵巻と違って立体的に展開していくところが面白いと思いました。鑑賞者の視線をどのように誘導するのかはもっと考えていきたいです。絵解きに使う軸はかなり大きいんですが、各地での布教のために持ち運んだりもしていたそうです。自分もあまりに縦長になるようであればパネルに貼らずに作ってみようかなとも考えています。

一枚の絵としてのまとまりと、一度に目に入りきらない複雑さとの折り合いがつかず、画面が煩雑なままになってしまうことが多くまだまだ課題がたくさんあります。物質的な部分を変化させつつも描かれた空間に不思議さがあるという作品を作っていきたいですね。



 

会期|2023年2月13日(月)〜3月31日(金)

利用可能時間|午前7時〜午後10時

入場料|無料

会場|地域貢献スペース(多摩信用金庫本店本部棟2階北側通路のギャラリースペースです)

〒190-8681 東京都立川市緑町3-4 多摩信用金庫本店2階

お問い合わせ|042-526-7788(たましん美術館)


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